読者ラーメンコラムvol.5

「アナザー大勝軒」

「大勝軒」という屋号を聞いたときに人々が思い浮かべることといえば、
一般の人なら、「なんかラーメン屋さんのような中華料理屋さんのような名前かな」
少しラーメンのことを知った人なら、「つけめん(もりそば)の大勝軒ですよね」
ラーメンに少し詳しくなると、「大勝軒には3つの系統があってね云々」
というところだろうか。

3つの系統とは、ここでは言うまでもないだろうが、つけ麺の大勝軒、煮干しが香る永福町にある大勝軒、そして、人形町にかつてあった大勝軒、だ。
ただ、実は最近、この3つの系統をきちんと知ろうと思っても、徐々に難しくなってきている事情がある。特に人形町大勝軒は系列店の閉店によって食べて知る術が失われてきているのである。

おそらくラーメン好きの間でも最も影の薄い大勝軒は、逆に最も歴史がある大勝軒である。その歴史は戦前、1912年まで遡る。1910年に浅草の来々軒で日本のラーメン史が始まったことは広く知られているが、その2年後に人形町大勝軒はすでにその歴史をスタートしている。

当時ハレの日の外食だった中華料理(広東料理)を大衆的なスタイルで提供した来々軒はまたたく間に評判となり、人気店となった。その後同じようなお店を出そうとするのは自然な流れだ。その中に油問屋の(初代)渡辺半之助さんがいた。半之助さんは商売人でもあり、浅草界隈飲み歩く粋な遊び人だったという。来々軒の成功という刺激、商売人の勘、なにより来々軒の一杯が美味しかったのかもしれない。浅草の人脈の中で、屋台を引いていた林仁軒さんと出会い、そのニンケンさんを料理人に人形町大勝軒はスタートしている。言うまでもなくラーメンは突然生まれた発明品ではなく、広東料理をベースとしたものだ。特に戦前から続くお店(戦前系)はその色合いを強く残しているところが多い。

ただ、そんなラーメンを食べることができるお店がかなり少なくなってきてしまった。人形町の総本店は1986年に閉店。その料理長が人形町三丁目に出したお店もかなり長く続いたが(このお店で人形町大勝軒を食べた方も多いと思う)、2010年に閉店。人形町から独立したお店では、一番古い新川(茅場町)の大勝軒は健在だが、大衆的な中華料理店として続いている。続いて馬喰横山の大勝軒は趣きのある外観の風情がたまらないが、ご主人の怪我により休店中、本町の大勝軒と言われる三越前の大勝軒は残念ながら先日2019年4月、その歴史に幕を引いた。2010年に人形町三丁目にあったお店を営んでいた楢山さんが日本橋に出したHale Williowsはまさに正統的な味の後継店だったが、こちらも今年店を閉めた。唯一といっていい総本店からの独立店は浅草橋のみというのが、寂しいが現状なのだ。

個人経営の飲食店の跡継ぎ問題が、記事となるのを見掛けるが、こういう伝統的なお店の味が残らなくなってしまうのは非常に残念だ。ただ、それを指を咥えて眺めているだけではラーメン好きとしては寂しい。僕たちがそれらを知り、語っていくために残っているお店を回っていきたい。そういう意味で貴重な聖地がひとつ残っている。人形にある珈琲大勝軒がそれだ。ここには人形町総本店の4代目渡辺千恵子さんと5代目の息子さんが、喫茶店としてその名を守り続けている。大勝軒の話を手向けると90歳にもなる千恵子さんからいろいろな話を聞くことができる。様々なエピソードの数々はまさにラーメン史そのもの。きっと僕たちファンが残していかないといけないものだ。

(渡邊 貴詞)