ラーメン史コラムvol.17

『佐野実は日本のラーメンをいかにして変えたか』

日本のラーメン界を最も変えた人物の一人として、佐野実氏を欠かすことはできない。横浜市戸塚に生まれ、洋食店で15年勤め上げた彼は、1986年に藤沢市鵠沼で「支那そばや」を開店した。この店が人気を集めた理由は、佐野氏のラーメンに傾けた熱意に他ならない。

21世紀以降、テレビの「ラーメンの鬼」で、佐野氏を知った人も多いと思う。白い厨房服に腕組みした姿がトレードマークになり、若手職人に容赦ないコメントをしていた為、テレビ局に苦情電話や脅迫状までもが届いたという。過剰とも言われた姿勢は、メディア側が求めたものだと言われている。「出演を受けると決めた以上、受けた後で文句を言うべきではない」と佐野氏は決めていたと語っている。そもそも、佐野氏がメディアに出演する目的も、評判のラーメン店や新たな食材を探す機会を作る為だったという。その姿勢は、開店して人気店になった1980年代から一貫していた。

開店したばかりの頃は味に迷い、人気店を改めて食べて学んでいた佐野氏。味が定まり人気店になってからも、評判のラーメン店を食べ歩き、味の向上に努めていたという。店に取材に来た記者が「全国版」のラーメン本を作ると聞いて、取材店を選定し、編集者の名刺を借りて取材に同行したというエピソードがある。ここで驚くのは、インターネットもなかった時代に店を選定する程、全国のラーメン店に精通していたことと、取材で味の秘密を探ろうとしたことである(ただ、その試みは成功しなかったらしい)。武内伸氏をして「日本一のラーメンフリークかもしれない」と言わしめたほどの情熱をラーメンに傾けていた。

その功績として特筆すべき事は、食材をラーメン店に広げていった事である。製麺所に「中華麺には向かない」と言われた国産小麦「ハルユタカ」を使うために自家製麺を始めたり、「一店舗に卸すには少なすぎる」と言われた名古屋コーチンを使う為に、店舗を増やした事もあった。そして、かつて日本で用いられなかった「モンゴルかん水」を使用する為に税関検査にも立ち会い、ラーメンスープの為に新たに掛け合わせた「山水地鶏」を創り出した。

現代の日本で、ラーメン店が当たり前に使っている「国産小麦」「ブランド地鶏」「モンゴルかん水」などの食材は、佐野氏が切り拓いた道の後ろに残されたものである。更に、弟子や支持した店主による「佐野JAPAN」が各地で様々な味を伝えていくなど「人」を育てた点も無視できない。佐野氏の熱意は、ラーメンの世界を確実に一つ上のステージに押し上げていったと言える。そして、そこから更にラーメン界の近代史が紡がれていくことになる。

(山本剛志)