ラーメン史コラムvol.6

富山ブラック

「ラーメンに地方性が生まれた時代
~富山ブラックとローメン~」

1945(昭和20)年の敗戦後、食糧不足が続いた日本。アメリカからの物資援助で小麦が輸入されるようになり、世情が落ち着くにつれ、経済発展への道を歩み始める事になる。1955(昭和30)年から神武景気が始まり、「もはや戦後ではない」と評されるようになった。

ラーメンの世界でも、1955年は様々な動きを見せている。札幌では「味噌ラーメン」、東京では「つけ麺」がメニューに載ったのがこの年であり、福岡では「長浜ラーメン」の屋台で「替玉」が始まった年とされている。それだけでなく、各地で個性的なラーメンのスタイルが、この年に生まれたと言われている。

空襲を受けた富山県富山市ではビルの建設が進んでいた。そこで働く労働者の中には、弁当箱に白米だけを詰め、ラーメン屋台に持ち込む者もいた。屋台の主は、濃口醤油を使ったスープに、濃い味付けのチャーシューやメンマで、その白米を美味しく食べてもらおうとした。その屋台は後に「西町大喜」という店を構えて人気店になった。店主は2000年頃に引退し、同所では別の企業が屋号を買い取り、先代と同じビジュアルの濃い醤油色のラーメンを提供している。

このスタイルのラーメンを提供する店は、富山市内でも決して多くはなかったが、富山市内に数店舗ある事がラーメン好きの間で話題になり「富山ブラック」という名前がつけられた。それ以降、知名度が急上昇して、富山ブラックを名乗るラーメン店も増加している。

ローメン

一方で、長野県伊那市で1955年に生まれたのは「ローメン」。当時は交通手段も発達しておらず、伊那地方は山脈に挟まれている事もあり、地元の食材を活かすより他なかった。当時は冷蔵庫も普及しておらず、食材を日持ちさせる必要もあった。生麺は傷みやすいために蒸し麺を使用し、野菜は地元で栽培されていたキャベツを使用。そして肉は、羊毛の生産が盛んだった伊那地方で、なおかつ食べる習慣がなかったマトンを安く仕入れた。これも日持ちするように塩漬けし、それらを炒める事で完成させた。

汁無しの焼きそばスタイルと、スープを入れたラーメンスタイルの2種類があるが、この味を考案した「萬里」では、ラーメンスタイルのローメンを看板メニューにしている。卓上に並んだ「ソース」「酢」「胡麻油」「おろしニンニク」などを組み合わせて、自分好みの味を完成させるスタイル。

独特のスタイルを生むご当地ラーメン。今の時代に考案したら、全く違うラーメンになっていたと思われる。考案された当時に思いを馳せ、その土地で食べてほしいと思います。

(山本剛志)