
第10回『東京都のご当地ラーメン』
【ご当地ラーメンと東京ラーメン】
日本における「ラーメン専門店」の誕生は明治末期(1910年頃)の東京浅草とされる。当時、浅草の人気店として知られていた「来々軒」は浅草最古のラーメン店ではないが、戦後も営業を続けてきた事で「東京ラーメン発祥の店」と呼ばれるようになった。戦前の東京では、鶏ガラや豚骨を使ってあっさり醤油味のスープに中華麺を合わせ、チャーシューやメンマなどを乗せたスタイルが一般的だった。東京で現存する歴史あるラーメン店としては、大正時代に屋台で創業した銀座「萬福」や、明治時代に中華料理店として創業した秋葉原「味の萬楽」などがある。
このスタイルが東京から全国へ広まったため、そもそも「東京ラーメン」という呼び方は存在していなかった。「札幌ラーメン」「博多ラーメン」などの呼び方が東京で知られるようになり、それに対置する概念として「東京ラーメン」という呼び方が生まれた。全国に広まったスタイルなので、東京ならではのご当地ラーメンと呼ぶ事に対する異論もある。その為か、日本中に広まっている醤油ラーメンでありながら「日本三大ご当地ラーメン」に含まれる事は稀である。

荻窪ラーメン:春木屋
【屋台から広まった別スタイルも】
「東京ラーメン」から派生したと言えるのが「荻窪ラーメン」。終戦直後、荻窪駅北口にできた闇市に集まった屋台がルーツで、「春木屋」「丸長」「丸福」「漢珍亭」などが荻窪で人気を集めて、日本初の「ラーメン激戦区」といった様相を見せた。「春木屋」「丸長」は蕎麦店との縁があり、スープに煮干や節類などの魚介系素材も使っていた。動物系と魚介系のブレンドが荻窪ラーメンの特徴として語られる事もあるが、動物系素材のみでスープを作る店も多く存在している。魚介系素材を加えた「東京ラーメン」も珍しくなく、両者の境界は曖昧なものになっている。
東京の屋台から広まったご当地ラーメンはもう一つある。それが「背脂ラーメン」。様々なラーメン店を営んできた難波二三夫氏による屋台「ホープ軒本舗」がそのルーツになり、100を超えた貸屋台が、高度経済成長期の東京各地の夜をラーメンで支えた。それらの屋台では、豚骨や背脂と野菜を煮込んだ、こってりしたスープが人気を集めた。そして、屋台からは千駄ヶ谷「ホープ軒」、浅草「弁慶」、恵比寿「香月」などが誕生し、難波氏も吉祥寺に店を構えた。麺上げに用いる平ザルで、丼に背脂を振りかける時の音から、後に「背脂チャッチャ系ラーメン」とも呼ばれるようになった。

油そば:珍珍亭
【ご当地ラーメンとしての「つけ麺」と「油そば」】
現在では専門店が全国に出店している「つけ麺」と「油そば」。現在では「ご当地ラーメン」とは異なる「ジャンル」と認識されているが、それぞれが東京で発祥し、しばらくは「知る人ぞ知る」味だった。
「つけ麺」は、中野区の「中野大勝軒」で1955年、「特製もりそば」の名でメニュー化された。中野大勝軒が属する「丸長のれん会」の各店舗では「つけそば」の名で、中野大勝軒に通っていた方が立ち上げた「つけ麺大王」で、「つけ麺」の名で営業していた。1980年代までは、東京都西部を中心にした味だったが、1996年に中野で開店した「中華そば青葉」や、2000年に川越で開店した「頑者」が人気を集め、「つけ麺」は全国区の知名度を得る事になった。
「油そば」の発祥は、武蔵野市の「珍珍亭」と国立市の「三幸」の二説があるが、どちらも昭和30年前後に提供を開始。中国の「拌麺」にヒントを得た、茹でた麺とタレを合わせた汁なし麺が、長らく多摩地区のご当地麺として知られてきた。1995年に吉祥寺で創業した油そば専門店「ぶぶか」が話題を集め、カップ麺の油そばが登場した事で知名度は全国区に。2008年に創業した「東京油組総本店」など、チェーン店が各地に出店を進めている。

八王子ラーメン:初富士
【八王子ラーメン】
八王子市子安町で1959年に開店したラーメン店に「初富士」は、新しいスタイルのラーメンを考案した。北海道で出会った玉ねぎ入りラーメンをヒント、刻み玉ねぎを薬味ではなく具として乗せる事を考案して、そこに合う味を作り上げた。他に「醤油ベースのタレ」「表面をラードが覆う」という特徴を持った「八王子ラーメン」が、市内を中心に1990年代までに多摩地区へと広がっていった。
2003年に八王子市役所職員らによって設立された団体「八麺会」では、「八王子ラーメン」の定義を「刻み玉ねぎ」「醤油タレ」「ラード」の3点としている。カップ麺化されるなどして話題を集めている。
(山本剛志)
