ラーメン史コラムvol.13

滋養軒

滋養軒

『北海道ラーメンの歴史』

このコラムの「第4回」で、札幌ラーメンの歴史について触れてきたが、札幌以外の各地でもラーメンがそれぞれに発達し、北海道の豊富なラーメン文化を形作っている。

【函館市】

幕末に国際貿易港として開港した函館は、明治後期には「東京以北最大の街」とも呼ばれていた。貿易で集まる様々な外国人の為の飲食店も多く、その中にあった洋食店「養和軒」が1884(明治17)年に新聞に出稿した広告で「南京料理」「南京そば」を提供していた記録が残されている。ただし、「南京そば」のレシピがなく、これが現在の「ラーメン」の発祥とはみなされていない。
明治後期から大正期にかけては、「支那料理店」「支那そば店」が立ち並んでいた函館は、1934(昭和9)年に大火が発生し、戦後にかけては屋台を中心に広まっていった。
函館のラーメン店で主に提供されてきたのは、澄んでシンプルな塩ラーメン。これは中華料理の汁麺の伝統を受け継いでいると考えられている。
1935(昭和10)年に「来々軒」、1946(昭和21)年に「王さん」、1948(昭和23)年に「汪さん」、1951(昭和26)年に「星龍軒」が創業。函館ラーメンを代表する人気店として知られてきたが、いずれも2010年代に閉店。1947(昭和22)年創業の「滋養軒」が、函館ラーメンの老舗として営業を続けている。
函館では「出口製麺」「丸豆岡田製麺」などの製麺所が人気を集めている。「丸豆岡田製麺」の岡田芳也社長は、若き日に出会った屋台ラーメンの味に感銘を受け、後に「マメさん」を立ち上げて人気を博した。

 

【旭川市】

道北の交通の要所として知られる北海道第二の都市、旭川市。1927(昭和2)年に営業が確認されている「支那料理 広東軒」をはじめ、札幌「竹家食堂」の支店「芳蘭」が1933(昭和8)年に開店。戦前には「八条はま長」「やまふく」なども営業していた。
現在の旭川ラーメンのスタイルが誕生したのは、1947(昭和22)年とされる。現在も旭川ラーメンの名店として名高い「蜂屋」と「青葉」の両店が、ラーメン店として創業した年である。
旭川では養豚業が盛んで、捨てられるような豚骨を煮込んだ白濁スープが作られ、その匂いを抑える目的で魚介出汁を加えるようになった。冬の厳しい寒さでも冷えないよう、ラードでスープに蓋をしてアツアツの一杯を提供している。配膳された時には立たない湯気が、麺を引き上げると広がるのも旭川ラーメンの特徴になっている。「蜂屋」創業時に麺を担当していた家族が「加藤ラーメン」を立ち上げ、旭川ラーメンを代表する製麺所へとなっていった。
1990年代に入って、地元青年会議所などによって「旭川ラーメン」を盛り上げる企画が立ち上がり、地元ラーメン店を集めた集合施設「あさひかわラーメン村」が1996年に開店。近年では、ご当地グルメの「旭川ホルモン」も取り入れた「旭川しょうゆホルメン」を提供する動きも始まっている。

蜂屋

蜂屋

【釧路市】

道東で港町でもあった釧路市では、大正時代に横浜から来た料理人が飲食店にラーメンを持ち込んだとされている。豚骨を使った澄んだスープに細麺というスタイルから始まり、戦争前後にラーメンを提供する屋台が増加。北洋漁業から戻ってきた漁師たちに素早く提供する為に、茹で時間が短い更なる細麺になっていったと言われている。
地産地消がメインで、北海道の他の地域にも広まっていなかった釧路ラーメンだが、2000年頃から地元業者や市民から積極的に発信され、札幌・旭川・函館の「北海道三大ラーメン」に次ぐ知名度になり、「北海道四大ラーメン」の一つとして数えられている。
札幌を含めた北海道各地のラーメンは、中国から伝来した汁そばをベースにしつつも、それぞれの土地で独自の形を得て、ご当地ラーメンとして定着していった。それぞれの街で市民の舌に馴染まれると共に、ご当地ラーメンブーム以降は、全国から北海道のラーメンを食べ歩く人により、「観光資源」としての存在意義も増していった。その代表的なものとして「北海道遺産」がある。2001(平成13)年に行われた第1回選定では、25件の中で唯一の食文化として「北海道のラーメン」が選ばれている。

(山本剛志)